2012年9月10日月曜日

人はなぜ走るのか

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで、
気に入ったセンテンスをメモしておく。


走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に
有効なメタファーでもあった。
僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、
達成基準のバーを少しづつ高く上げ、それをクリアすることによって、
自分を高めていった。
少なくとも高めようと志し、そのために日々努めていた。
P25


同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、
しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年のほうが当然のことならがら
遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。
与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それが、ランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ
P123

マラソンを初めて、ちょうど1年くらいたった。
走るのは週1回程度で、まだまだ本格的に走っているとは言い難いけれど、
1年のうちにフルマラソンも2回経験した。

村上春樹が言うように、走ることは生きることのメタファーだ。


そしてまた、走ることはフィジカルを介した自己との対話だ。
僕はそんな風に考えている。

頭の中で「自分ってこういう人間だ」と解釈するよりも、
走っているときに見つける自分の方が、よりネイキッドに近い。

初めてフルマラソンを走った時。
30キロ前後で脚が悲鳴を上げた。もう走れない!
なんで今走っているんだろう。走るのを止めたい。弱い自分が情けなく叫ぶ。

走るのをやめて道端に横になりたい…そんな考えが頭をもたげると、
一方で強い自分が主張する。
ここで走ることを放棄したら挑戦している意味がない。最後まで力を振り絞るんだ。

後ろ向きな自分も、前向きな自分もどっちも自分。
当然僕は、前向きな自分にベットした。

限界を超えたところで出会える「弱い自分」と「強い自分」
それもマラソンの醍醐味の一つだ。

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